拾遺詩篇

 

 

 

墜ちる海

 

赤い騒擾が起る

 

夕方には太陽は海と共に死んでしまふ。そのあとを衣服が流れ波は捕へることが

出来ない。

 

私の眼のそばから海は青い道をつくる。その下には無数の華麗な死骸が埋つてゐ

る。疲れた女達の一群の消滅。足跡をあわててかくす船がある

 

そこには何も住んでゐない。

 

 

 

指間の花

 

 1

 昨日ホテルの裏通りを歩いてゐた時、ガードの下のところに咲いてゐる黄色い

花をめつけた。アスフアルトの裂け目の乾いた土の上のひとかたまりの色彩。

 明るい午後の鋪道は自動車のボデイが照りかへつて、それの長いつながりは美

しい。私は幾度もその後から駆け出したくなる。太陽が其處にゐるのかと思つた。

エンヂンのひびきや油の匂が軽い空気のやうに街にいつぱい充ちて、両側の窓硝

子をゆすぶつてゐる。街角では起重機が鉄材を空へ捲きあげてゐる。薄い空を傷

つけなければよいが。物の壊れる音、常に動いてゐる空間の魅力は素晴らしい。

ヂグザグとした切断面の美しさばかりを見てゐるといふことは単に眼を疲れさす

だけではないか。

 

 2

 ベコニヤは支那の婦人の靴を連想する。桃色の小さい豊かな花瓣がカアテンを

あげたばかりのフレエムの中に湿つてゐる。

 並木の下で少女は緑色の手を挙げて誰かを呼んでゐる。植物のやうな皮膚を驚

いて見てゐると、やがて絹の手袋をぬいだ。

 

 3

 夜更けになると人間の形をしたハンマアが小さなカンテラの灯の下で地殻を掘

りさげてゐる。そして真暗な穴の向ふへ私達を連れこまうとしてゐる。明るい地

上がいまにきつと忘れられる時が来る。土壌の崩壊、建設、そんなものが人間を

負かしてしまふのだらう。

 

 4

 馬が嘶きながら丘を駈けてくる。鼻孔から吐きだす呼吸はまつ白い雲であつた。

彼はミルクの流れてゐる路をまつしぐらにやつてくる。私は野原は花が咲いたの

かと思つた。

 

 5

 朝になるとキヤベツ畑では露が大きな葉のかげに溜るのだが、殆どこれは昆虫

の常食になる。露の宝石をたべるので、青虫はあんなに透明な体をしてゐる。

 

 6

 カツトグラスの中に一本のケンシスが生える。その鉛の液体は有害である。私

は本を読む時、メガネをはづしてそばへ置く。

 

 

 

菫の墓

 

ピアノからキイがみなでていつた

真暗な荒野に私は喜びを沈めよう

昼の裸の行進を妨げる

むきだしになつた空中の弦は断たれるだらう

リズミカルな波が過ぎ去つた祭礼にあこがれる

いつまでも祈るやうな魂の哄笑が枝にお辞儀をさせ

われわれの営みを吹き消す

その巨人等の崩壊はまもなく大地へ

凍つた大理石を据ゑてしまふ

 

 

 

夜の散歩

 

 夜更になると鋪道は干あがって鉛を流したやうに粗雑で至るところに青い痰が

吐きつけられてゐる。その生々しいかたまりが、私に人間の腐つた汚れた内臓の

露出された花のやうな部分を想像させ、摑まへどころのない不気味な気持にかり

たてられる。昼の間は巧みな表情やお世辞の多い会話で蔽ひ隠せるだけ隠した人

達がこの暗がりのあちらこちらに自分の一番醜悪なところだけを新聞紙の屑や蜜

柑の皮と一緒に安心して置いていつたに違ひない。それらを下駄の歯でおさへつ

け、爪先で蹴飛ばしながら男も女も夜の街路からどこかへ逃げてしまつた。どよ

めきは完全に停止し何事も無かつた時のやうに静まりかへつてゐる。撥じき返す

犬どもの目玉もなく、陰翳といふ陰翳はすべてもつともらしい破滅の中に沈んで

暗黒が舌なめづりをしてゐる。私の怖れてゐるのは私をうちのめす闇の触手だ。

見えない力で凍えかかつた胸を溶かし或る時は約束もなく棄て去るそれらの曖昧

な刃物を。

 私は今歩いてゆく。他人の捨てたぬけ殻を拾ひ集めながら現実を埋めてゐたも

のはこんなむさくるしい残滓だけであつたことを思ひいつも空白な場所を充して

ゐると考へてゐた美しい羽毛は頼りにならない泥沼の上であつた。傲慢な性格や

建物、音響などが現実を濾過する時の眩暈する時間はたつたいまであつたやうな

気がするけれども、ほんとうは遠い昔の出来事かも知れない。私達の凭りかかつ

てゐる壁のやうなもので出来た夜が押し拡げてゆくのは貧弱な壜の口から落ちて

ゐる一滴の黒い水である。それが殖民地の港を潜り、裏切られた人々の心を流れ、

明るくなるまで堰止められることはないだらう。

 両側の家々の窓はもうはためかない。私が通るたびに合歓木のやうに入口を

ぢる。戸のすきまからいくつもの目が覗いて、終つたばかりの談話をまた続け

私の癖を笑ひ、噂をし、どんな悪口を云ひ合つてゐることか。ぼそぼそ呟いて

る音のその内側から洩れるのが私を立ち止らせ、狙つてゐる。私は振返ること

許されない。前方には電車の軌道が空中に湾曲して華やかな火花を散らしてゐる。

でこぼこした地図を跨いでゐるやうに粘りつこい足の裏を気にしながら、私は小

さな環のまはりを足踏みしてゐるだけである。立つてゐる場所といへば靴のかか

とがわづかに接触してゐるだけの土壌が私自身を支へてゐるのみで余分な土地は

どこにもない。不安定な足枷をふみしめながら歩行することは非常に困難である。

私達は深い谷底に突き落される幻覚を屢々見る。私は縋る、毛糸に、垣根の忍冬

に。けつして脚元だけしか照さうとしない電気王冠が人を嘲笑しつつ無気力な男

達の顔を歪めて通りすぎる。お前には何も出来ない、お前はもう役に立たなくな

つたのだといふやうな様子をして。私達は彼等から卑劣な言葉を、哄笑を掬ひあ

げれば沢山だ。

 誰も見てゐるわけではないのに裸になつてゐるやうに私は身慄ひする。街路樹

には葉がなかつた。触ると網膜が破れさうだ。今まで私をとらへてゐた怪物の腕

はなほ執拗に強制する。信じさせようとしたり、甘やかさうとしたりする心を。

あれは無形の組立ををへたばかりの虚偽なのであらう。いつまでも失つたものを

掘りかへさうとしてゐるおひとよしな女への冷酷な鞭である。だから再び清麗な

反響は聴えない。成熟した日光の匂も其處にはなかつたから。内臓の内臓を曳き

出してずたずたに裂いても肉体から離れてしまつた聲は醜い骸骨を残し、冬の日

の中に投げ出されてゐる。

 私は嵐のやうな自由や愛情にとりまかれてゐたかつた。それなのに絆は断たれ

た。もはや明朗なエスプリは喪失し、大地はその上に満載した重さに耐えられぬ

程疲労してゐる。低音を繰返し苛立たしい目付をして。ただ時々閃く一條の光が

私が見た唯ひとつの明日への媚態であつた。

 裏町の脂粉を醸し、掌のうへで銀貨の数をしらべ、十二時二十八分の風が吹く。

夜中から朝へと往復する風が私の双手を切つて駆けだす。その揺れてゐる襞の間

からフイルムのやうな海が浮びあがる。雪が降つても降つても積らない暗い海面、

丁度私が歩いてゐる都市のやうに滑らない花の咲かない一角で、何か空しい騒ぎ

を秘めてゐる波の群、滅びかけた記憶を呼びかへし、雲母板のやうな湿つぽいき

らめきを与へつつ一度に押寄せて来て視野を狭くする。あの忌はしい外貌は歎く

だらう。思惟の断層に生彩をそへながら消えてしまふまで、傷口を晒す。

 角を曲らうとする。誰がこんなじめじめした区域に、根を下さうとするのか。

星の囁を忘れよ。夜の脇腹を縫ふピストンに合せて散る頭上の花葩は輝く。軒下

に首へハンカチを巻きつけた一人の男が蹲つて、たつたいま下界に墜落して来た

かのやうに天空を窺つてゐる。妙に古典的な表情とくすんだ静脈が透いて見える。

早く帰らなければならない、もう帰るんだぞと云ひながら、独白が歯のあひだか

らこぼれる。

 

 

 

花苑の戯れ

 

      Scene I

街の舗道へあざやかに

描いた恋のフイギユア

空のロビイのリラの花

瞳のなかの暗い日を

白と黒とに開けてゆく

 

      Scene II

鉄砲百合から合唱する少女達の声が――

最初に季節を破る

植民地行きの燕麦は

貨物船の上で芽を出すと

食卓の雲のかげから

ペンギン鳥がエプロンを振る

貝殻

Oh !

 

 

 

風が吹いてゐる

 

暗い庭を

賑やかに笑ひながら

行列が通つたあとのやうに

ゆられる樹木は

誰に話かけようとしてゐるのだ

 

見えない足音が

遠くの聲のやうに

白日の夢をかはかし

氷の上で

私の影を踏みつけてゐる

 

外でははげしく

昼が吹き消された

鷗は嘴をまげ

むらがる波から

あたたかい言葉を集め

ランターンの中へ

逃げ込んでしまつた

 

人々は春を待ち

失つた時刻を求め

彼らの瞳のなかへ

もう一度

鷗の帰るのを望むだらう。