訳詩『室楽』 Chamber Music (ジエイムズ・ジヨイス)

 

 

 

地と空の弦は美しい音楽をつくり出す。柳の集まる川の傍にある弦は。

 

川に沿ふて音楽が響く。愛の神がそこをさまよつてゐるので。彼のマントの上の青ざめた花。

彼の髪の上の暗い木の葉。

 

軟らかに弾きならしながら、音楽に熱して彼は頭を曲げ、楽器の上を指はさまよひ。

 

 

たそがれはアメシストから深い更に深い青に変る。ランプはあせた緑の光で街路樹を満たす。

 

古風なピアノが曲を奏でてゐる。静かな緩慢な軽い曲を。彼女は黄色いキイの上にかがみ、彼

女の頭は一方へ傾く。

 

臆した考へとかなしい大きな眼と、人々が聴き入る間をさまよふ手と―たそがれはアメシス

トの光を更に深い青に変へる。

 

 

総てのものが眠るあのときに、おお孤独な空の番人よ、あなたは夜風と、朝の青ざめた門を開

けと愛の神に向つて弾いてゐる堅琴のため息をきくか?

 

総てのものが眠るとき、甘い堅琴が愛の神の来るほとりに奏でられ、夜風が夜の明けるまで答

唱歌を答へるのをあなたは独りで聞いてゐるか?

 

奏でよ、見えない堅琴よ愛の神まで。空の中の彼の道はやはらかな光が行き戻りするその時間

には輝いてゐる。天上と下界との中にやはらかな美しい音楽を奏でよ。

 

 

はづかしげな星が少女のやうに、寂しげに空へ出て来るその時、あなたはねむたげなたそがれ

のなかで、門のそばで歌つてゐる人をきく。彼の歌は露よりもやはらかい。そして彼はあなた

を訪ねてやつて来たのだ。

 

彼が夕暮に呼ぶときはもはや夢想してはいけない。また想ひに耽つてはいけない。私の心を歌

つてゐるこの歌手はだれだらうか、と。この愛の歌でさとるがよい。あなたを訪ねて来たのは

私だといふことを。

 

 

窓に凭れよ、金髪のひとよ、私はあなたの楽しい歌をきいたのだ。

 

本をとぢ私は読むことをやめた、床の上に踊る焰の影を見ながら。

 

私は本を離れた。私は室を出た。あなたがたそがれの中で歌つてゐるので。

 

楽しい歌をうたひ、そしてうたつてゐる。窓に凭れよ、金髪のひとよ。

 

 

私はやさしいあの抱擁の中にゐたい(おおそれは甘くそれは美しい)その中では冷たい風が吹

くまい。悲しい冷酷さのゆゑに 私はあのやさしい抱擁の中にゐたい。

 

私はあの胸の中に何時までもゐたい(私は静かに戸を叩き彼女を呼ぶ!)

そこでのみ平和は私のものになる。冷酷もかへつてやさしいものだ、いつもあの胸の中にさへ

ゐたら。

 

 

私の愛人は軽快な装ひをして林檎の木の中にゐる。そこでは賑やかな風が大勢で走ることを心

から好む。

 

賑やかな風が通り過ぎながら若い木の葉を誘惑するために止まるその場所を、私の愛人は静か

にゆく。草の上の彼女の影の方に身を傾けて。

 

そして空が笑つてゐる陸の上の青いカツプになる處を、私の愛人は軽やかにゆく。彼女の着物

を優雅な手でかかげながら。

 

 

彼女を飾る春とともに緑の森をゆくのはたれか? 快適な緑の森を歩き更にそれを楽しくする

のはたれか?

 

軽やかな足どりを知つてゐる道をふんで陽の光の中を通りすぎるのはたれか? 非常にあどけ

ない様子をして快い陽の光の中を通りすぎるのはたれか?

 

総ての森林帯の道はやはらかくそして金色の焰で輝いてゐる。誰のために日光のかがやく森林

帯は華やかな着物をつけてゐるのか?

 

おお私のまことの恋人のために、木等は立派な衣服を着てゐる――おおそれは若く美しい私の

まことの恋人のために。

 

 

海の上に踊る五月の風等よ、船跡から船跡へと愉しく輪をつくつて踊り、その間に波が頭上に

飛上つて空中にかかつた銀のアアチの花環に飾られるが、あなたは私のほんとうの恋人をどこ

かで見たか。

 いな! いな!

 五月の風等よ!

恋人がゐない時、恋人は不幸なのだ!

 

 

10

輝く帽子と飜る飾り、彼は谷間で歌つてゐる。やつておいで、やつておいで。恋するものはみ

な。夢は夢みるものに残せ、歌を笑とにも動かされず、立上らうともせぬ彼等に。

 

飜るリボンをつけて彼は大胆にうたふ。彼の肩の上に野蜂が群れて唸る。そして夢みる時は、

夢は終つた。恋人から恋人へとやさしい恋びとよ、私はやつて来た。

 

 

11

さやうなら、さやうなら、さやうならをせよ、少女の日々をさやうならをせよ。幸福な愛の神

がおまへを求めるためにやつて来た。おまへの少女らしい様子を求めて――おまへを美しくす

る帯、おまへの黄色な髪の上の飾り紐を。

 

天使のラツパが彼の名を告げるのを聞いた時はおまへは少女らしい胸の帯を彼に向けて静かに

ときはじめ、少女時代のしるしなる飾り紐を静かに解き去る。

 

 

12

私の内気な恋人よ、暈を着た月はおまへの胸にどんな忠告を与へたのか。古風な満月の愛の神、

暈と星を足下に見、道化た托鉢僧の仲間にすぎない哲人の。

 

神のことは気にかけず、むしろ私の賢さを信ずるがいい。光栄はその眼に輝き、星の光ときら

めく。私のものよ、おお、私のものよ! いとしい、傷つきやすいものよ、もう月夜にも霧の

夜にもおまへの泣くことはない。

 

 

13

たしなみ深く彼女を求めて行き、そして私が来ると告げよ、いつも祝婚歌をうたつてゐる香は

しい風よ。おお暗い陸を越えて急ぎ、海上を走れ。海と陸は私達を離すことがあつてはならぬ

から。恋人と私を。

 

さあ、お願ひだ。たしなみ深く、風よ、行つて、彼女の小さな庭を訪れ、窓辺で歌つてくれ。

歌つてくれ。婚礼の風が吹いてゐる。今は愛の真盛り、まもなくあなたのほんとうの恋人はあ

なたの處へ来る。まもなく、おおまもなく、と。

 

 

14

愛するもの、美しいものよ、起き出でよ、起き出でよ! 私の唇にも目にも夜露が下りてゐる。

 

香はしい風が溜息の曲を奏でてゐる。起き出でよ、起き出でよ、愛するもの、私の美しいひと

よ!

 

私は杉の木のそばで待つてゐる。わが妹、わが恋人よ。鳩のやうなまつ白な胸よ、私の胸こそ

はあなたのねどこなのだ。

 

青ざめた露が私の頭の上にヴエールのやうに降る。やさしいものよ、私のやさしい鳩よ、起き

出でよ、起き出でよ!

 

 

15

露にぬれた夢から、恋の深いねむりから、死から、私の魂よ、めざめよ。今こそ見よ! 木々

の葉は朝に目覚まされて溜息に充ちてゐる。

 

東方は次第に明けて来て、そこから静かにもえる焰があらはれる。すべての灰色と金色の蜘蛛

の巣のヴエールをふるはせながら。

 

その間に、やさしく、静かに、ひそやかに、朝の花の鐘等がゆすぶられる。仙女達のたくみな

合唱(おお無数の!)が聞えはじめる。

 

 

16

おおいま谷間は涼しい、そこへ恋人よ私達は行かう、かつて愛の神の現れたそこで多くの聲の

歌ふのが聞えるから。

そしてあなたは聞かないか鴉の呼ぶのを、私達を彼方へと呼ぶのを。おお谷間は涼しく楽しい、

そこで恋人よ私達は休まう。

 

 

17

あなたの聲が私の傍にあつたため彼に苦痛を与へた。私の手の中にあなたの手を再び握つたた

めに。

 

それを償ふことの出来る何の言葉もまた何の形もない――かつて私の友であつた彼はいま私に

とつて見知らぬ人だ。

 

 

18

おお、やさしいひとよ、あなたの恋人の語るのを聞け。友等が彼を裏切る時人は悲しむのだ。

 

なぜならば、その時彼は知らねばならぬから、友達が不信なことを。また彼等の言葉が一握り

の灰になつたことを。

 

併し一人の乙女が彼の方へ静かに寄るだらう、そして彼を愛の道で静かに求めるだらう。

 

彼の手は彼女の滑らかな円い胸の下にある。それによつて悲しみをもつ人にやすらかさが来る。

 

 

19

総ての人々はあなたの前で偽つてさはぐのを好むからと云つて悲しむな。恋人よ再び平和であ

れ。――彼等にあなたを恥しめることが出来るか?

 

彼等はあらゆる涙よりもなほ多く悲しい。彼等の生活は一條の絶えない溜息として高まる。彼

等の涙に傲慢に答へよ。彼等が否定するとおなじく否定せよ。

 

 

20

暗い松の林のなかで真昼に深い涼しい影の中で私達は横たはつてゐたい。

 

どんなに甘いだらう、そこに横たはるのは。また接吻するのは甘いことだらう。大きな松の林

が廊下のやうになつてゐる其處で。

 

おまへの接吻が降つて来る。髪の毛のやはらかな群がりの中の接吻は更にたのしい。

 

おお、松の林の方へ真昼に今私とともに行かう、やさしい恋人よあちらへ。

 

 

21

栄誉を失ひまた友となる魂も見出さない彼は軽蔑し憤怒しつつ彼の敵等のあひだで、古風な高

貴をたもつてゐる。その高い交はりがたい者――彼の恋人のみが彼の仲間である。

 

 

22

そのやうに甘く私を虜にするものと思へば、愛する者よ、私の魂は消え失せさうだ――やさし

さを私に求め、愛を私に求めるやはらかな腕。ああ、その腕がいつか私を其處にしつかりと抱

くことが出来るなら、歓んで私は一人の囚人になるのに!

 

愛する者よ、交された腕のなかで愛によつて震へるその夜は私を誘惑する。そこでは少しも私

達を驚かせるものはなく、ただ眠りはもつと夢の多い眠りへつながり、魂と魂がとぢこめられ

て横たはるばかり。

 

 

23

私の心臓の近くで羽搏をするこの心臓は私の希望と総ての私の財宝である。私達が別々にはな

れた時は不幸で、接吻と接吻の間では幸福だ。私の希望と総ての私の財宝――さうだ!――そ

してすべての私の幸福。

 

そこに、苔の生えた巣の中で鶺鴒が色々の財宝を守つてゐるやうに、私の眼が泣くことを覚え

る以前に私の持つてゐたこれらの財宝を私はしまつておいた。たとへ恋は短い間しか続かない

にしても、私達も彼らのやうに、賢くはないだらうか。

 

 

24

静かに彼女は梳つてゐる。彼女の長い髪の毛を。静かにそしてしとやかに、様々の美しい唄を

うたひながら。

 

太陽は柳の葉の中に、そして斑らな草の上に輝く。その間も彼女は梳つてゐる、姿見の前で彼

女の長い髪の毛を。

 

私は願ふ梳るのをやめるやうに、あなたの長い髪の毛を梳るのを。なぜなら私は美しい唄の中

にかくれた魔法のことをきいてゐるから。

 

それは此處で歩いたりする恋人に、いくつものやさしい唄といくつもの投げやりを持つ全く美

しいものとなつて現れる。

 

 

25

軽やかに来、また軽やかにゆけ、たとへ心臓がおまへに不幸を予覚させようとも、谷と多くの

焼け落ちた太陽のあるあたり、山の精はおまへの哄笑を走らせ、無礼な山の空気がおまへの飜

る髪の毛全部に漣をたてるまで。

軽やかに、軽やかに、――そのやうにして。夕暮の時刻に下方の谷を包んでゐる雲らは最も賤

しい侍者である。心臓が最も重い時は、歌であらはされる愛と笑ひだ。

 

 

26

やさしいひとよ、やさしいひとよ、おまへは夜の七絃琴に聴き入る。やさしい婦人よ、一つの

予言する耳よ。あの静かな歓びの合唱の中に、何の音がおまへの心臓をこはがらせるのか? 

北国の灰色の沙漠からほとばしり出てゐる河の音のやうに思はれたのか?

 

おまへのその気分は、おお臆病者な者よ、それは彼の与へたものだ、もしもおまへがそれをよ

く考へ直してみれば。魔術を使ふやうな不気味な時間に我々に気狂ひ物語を語つた彼――そし

てそれはみな彼がパアチアスやポリンシエツドの中から読んだ不思議な名前のせゐだ。

 

 

27

たとへおまへのミドリダテスなる私が毒箭を防ぐやうに造られてゐようとも、でもなほおまへ

の心臓の魔力を知るために、おまへは気づかない間に私を抱きしめなければならぬ。さうすれ

ば私はただ降服して、おまへの優しさの悪意を自白するばかりだ。

 

優雅な古風な言葉のためには、愛する者よ、私の唇はあまりにも堅く蠟づけられる。また私は、

我々の笛を吹く詩人が厳めしくその賞讃をする恋も今までに知らない。また非常にわづかな虚

偽もないやうな恋も私は今までに知らなかつた。

 

 

28

やさしい婦人よ、恋の終りについての悲しい歌をうたつてはいけない。悲しみを傍へ押しやつ

てそして過ぎてゆく恋がいかに満ち足りてゐるかを歌へ。

 

死んだ恋人等の深い永い眠りについてうたへ。そして墓の中ですべての恋はどうしてねむるか

を。恋も今はもの憂い。

 

 

29

恋人よ、なぜあなたはそのやうに私をとり扱ふのだらうか? 静かに私を責めるやさしい眼、

あなたはなほ美しい。

――併しおおあなたの美しさはどんなに衣裳をつけてゐることか? あなたの眼の透明な鏡を

とほして、接吻から接吻への軟い溜息をとほして、孤独な風らは恋の居る影の多い庭に叫びな

がらうちあたる。

 

まもなく恋は解け去るだらう、我々を越えて荒い風が吹く時に――併しあなた、親しい恋人よ、

あまりに私に親しい人、ああ! なぜあなたはそのやうに私をとり扱ふのだらうか?

 

 

30

過ぎ去つた昔に、我々の處に愛の神がやつて来た。一人が黄昏に臆病らしく弾いて居り、そし

て一人は怖ろしさうに傍に立つてゐた時に。なぜなら最初恋はすべてを恐れたから。

 

我々は慎重な恋人だつた。その甘い時間を幾度かもつた恋は去つた我々が進むだらうと思はれ

る道を今最後に我々は歓んで迎へる。

 

 

31

おお、それはドニイカアニイのそばであつた。蝙蝠が木から木へ飛ぶ頃恋人と私が一緒に歩い

たのは。そして彼女が私にいつた言葉は甘かつた。

 

夏の風が私達のかたはらをさはがしい音をたてて進んだ――おお、幸福さうに!――しかし夏

の呼吸よりも軟いものは彼女があたへた接吻であつた。

 

 

32

終日雨が降つてゐる、おお、果実のみのつた樹等の間へおいで。葉等は記憶の道の上に堆積し

てゐる。

 

記憶の道にちよつとの間停まつて我々は別れよう。来なさい、恋人よ、其處では私はあなたの

心を動かすかも知れぬ。

 

 

33

いま、おお今、かつて恋が甘い音楽を奏でたこの灰色の国の中を、二人は手を携へて逍遥はう、

古い友情のために耐へながら、そしてかくの如く終をつげた我々の恋が華麗であつたのを悲し

むこともなく赤と黄の着物を着た小さな奴が、木を叩きそして叩いてゐる。それから我々の孤

独のまはりぢゆうを風はたのしげに口笛を吹いてゐる。樹の葉等――彼等は少しも溜息をつか

ない、秋毎に年が彼等をとり去つても。

 

いま、おお今、我々は最早聞かない、律詞も、円舞曲も! しかもなほ我々は接吻しよう。恋

人よ、日の暮れに別れをつげる前は悲しむな恋人よ、何事をも――かくて年は年に重なつてゆ

く。

 

 

34

さあ眠れ、さあ眠れ、おおお前、落着きのないものよ! ((さあ眠れ)) と呼んでゐる聲が私の

心の中できこえる。

 

冬の聲が扉口できこえる。 ((もう眠つてはならぬ)) と、冬の眠りは呼んでゐる。

 

私の接吻はいまお前の心に平和と静けさをあたへるだらう――さあ安らかに眠れ、おお落着き

のないものよ。

 

 

35

終日私は水の音の歎くのをきく、独りで飛んでゆく海鳥が波の単調な音に合はせて鳴る風を聞

くときのやうに悲しく。

 

私の行く處には、灰色の風、冷たい風が吹いてゐる。私は遥か下方で波の音をきく。毎日、毎

夜、私はきく。あちこちと流れるその音を。

 

 

36

私はきく、軍勢が国を襲撃し、膝のあたりで泡だてながら馬の水に飛び込む音を。傲然と、黒

い甲冑を着て、彼等の背後に立ち、戦車の御者等は手綱を放し、鞭を打ちならしてゐる。

 

彼等は闇の奥へ高く名乗りをあげる。私は彼らの旋回する哄笑を遠くできく時、睡眠の中で呻

く。彼らは夢の暗闇を破る、一のまばゆい焰で、鉄床(かなしき)のやうに心臓の上で激しく

音をうちならしながら。

 

彼らは勝ち誇り、長い緑の髪の毛をなびかせながら来る。彼らは海からやつて来る。そして海

辺をわめき走る。私の心臓よ、そのやうに絶望して、もう叡智を失つたのか? 私の恋人よ、

恋人よ、恋人よ、なぜあなたは私を独り残して去つたのか?